落ちていく

 ――あぁ、これで終わり。

 

 女は今際の際にそう思った。

 もう目の前には、避け様のない眠りが迫っている。それは、学のない女にも分かった。

 女は、生まれてから今の今まで一人だった。

 自分を産んだ女は、その女を産んだ女とその種となった男に自分を預け、どこかへ消えた。そう誰かが話しているのを聞いた。

 女にとって、戸籍上祖父母に当たるその二人は、女に必要なものは与えたけれども、それ以外は何も与えなかった。何が与えられたかと言えば、食事、衣服、住居。この三つだ。他は何も与えられた覚えがない。どこかへ連れて行ってもらったとか、一緒に食事をしたとか、そういう記憶が、女にはなかった。それどころか、祖父母の顔さえも正しくは憶えていない。

 確かに、そんなものは必要ない、と女は思う。

 自分の背が伸びれば、いつの間にか新しい服が一着だけ用意された。女は次の服が来るまでそれを着続けた。見た目にも醜いほどにその服が古くなると、また新しい服が一着だけ。女は、衣服とは体さえ隠せればいいのだと理解した。胸が膨らみ始めると、誰が知ったのか、誰が用意するのか、おそらく祖父母であったのだろうが、いつの間にかブラジャーも用意されていた。女は一応身につけたが、苦しいだけだと不快だった。

 朝女が起き出して行くと、テーブルの上にはバタールが一個と、ぬるくなったミルクがあった。女は毎朝一人でそれを食べる。幼いころは食べるだけだったが、ある程度育つとそれを片付けることを憶えた。昼食は食べない。正確に言えば、昼食と呼べるような時間に食事はしなかった。腹が減った時に、減った分だけ食べた。だから、決まった昼食と言うものはなかった。あるものを食べる。夕食も同じようなもので、時間を見て自室から食堂へ行くと、食事が用意されていて、女はただそれを食べ、自分の分を片付けた。そこに祖父母がいたかどうか憶えてはいない。

 ただ、祖父母は裕福であった。家は広かったし、使用人も多くいた。

 家で祖父母に会わずとも使用人には会った。使用人は、女と他愛もない世間話をした。使用人が何人いるか、女は知らない。ただ、特定の使用人だけが、女と話していた。他の使用人は、女を見ても何も言わない。

 その女と話をする使用人というのは男だったのだけれども、女は別段気にも留めなかった。そもそも、男女の根本的な違いや何かといったものを教える人間が、一人として彼女の周囲にはいなかったものだから。

 女は、十二の時に女の煩わしさを知った。月に一度やってくる鈍痛と出血。やはりそれも、祖父母いつ知ったのだろう。部屋に戻るとそのための道具と使い方の書かれたメモが置いてあった。メモと言っても、それは図であった。女は字が読めない。誰も教えなかったからだ。その図も、その手の商品を作るメーカーが無料配布しているようなものだった。女はそれに気付かなかったけれども。

 女はそのメモを見て、さしあたっての処理をした。痛みには薬を飲めばよいと分かったけれども、何錠飲んで良いか分からず、どんな薬か気持ち悪かったので一錠だけ、水もなしに飲み下した。

 それから一日、女は寝ていた。痛みの所為もあったし、体中が気だるかった。

 それから数日して、出血が収まった。これがこれから毎月あるのかと思うと女は憂鬱だった。何のための出血なのか女は知らなかった。知らなかったゆえに、尚更それが気持ち悪かった。

 女ははじめて使用人にそのことを相談した。使用人は酷くうろたえたが、誰にでもあることだと言った。女は子どもを生むのだが、そのための準備を体がするとそうなるのだと使用人は説明した。

 女は、そういうものか、とうなずく。納得はしたくなかった。何せ、自分が『産まれた』実感がないので、自分も『産む』のだと言う実感がなかった。産む必要はないと思った。必要のない支度を、なぜ意思に反して体は行うのか。

 女にとって、『女という体』は酷く不快なものだった。苦しいばかりのブラジャーを着けなければならないし、必要ないと思うような準備を勝手にやって鈍い痛みを齎す。自分の自由にならない『性』が、酷く不快で不愉快だった。

 ある時、使用人は大事な話があるといって女をある部屋に連れ込んだ。女はいつもと違う使用人の様子に少し不安を憶えたけれども、逃げようとはしなかった。

 そして、女は逃げなかったことを後悔した。

 不快感と痛みと気持ち悪さしかなかった。どうしたものかと考えあぐねて、手近にあった壺で使用人の――男の頭を力いっぱい殴った。何度も。男が動かなくなるまで殴って、走り出そうとした時、自分が一糸纏わぬことに気付いた。仕方なしに、女はそこにあったシーツを掴んで体に巻いた。どうしたものかと女は思う。服は一着しかなかったのに。あの男に引き裂かれてしまった。

 体中に痛みがあった。しかし走らなければならないと思った。何かから逃げなければならないと酷く感じたからだった。

 その日から、女にとって男も嫌悪の対象でしかなくなった。

 女は『女』が嫌いだった。女は『男』も嫌いだった。しかし、恨む気持ちはなかった。

 それはあくまで彼女の不快感だけであって、彼女は『恨む』根拠を知らなかった。嫌いではあったけれども、恨みも憎みもしなかった。それがどういうものなのか、彼女は知らなかった。自分が悪いと思わない代わりに、相手も悪いとは思わなかった。

 他はみんなどう生きているのか、女はとても気になった。

 ――みんなこんな風に生きているのかしら。

 部屋に戻って、女はシャワーを浴びた。体が軋みを上げるようだった。足の間を流血が伝ったが、気にしなかった。痛みがあったのだから、血は流れて当たり前だろうと思った。シャワーを終えて部屋に戻ると新しい服が用意されていた。疑問が頭をもたげた。

 ――何故服が用意されるの?

 成長に合わせて服が用意されるのはなんとなく女も理解していた。見た目で分かるからだ。けれど、今回はそんなものではない。突発的に起こった出来事だ。誰が知るでもなく。

 だというのに、服は用意されている。

 けれど、女はすぐにその疑問を忘れた。そんな不思議は女にとって何の価値もなかった。生きるのに不要だった。疲れるだけだ。

 自分には食事と寝床がある。それで充分だと女は思った。何が充分なのか、女は理解していなかったが、不意にそんな言葉が思考を過って、女は自分に疑問を感じた。男を動かなくしたのに誰も何も言ってこない。動かないようにしても問題は無いのかと女は思った。女には生と死の概念もなかった。

 それから、ずっと女は今まで通りに暮らした。朝起きて食事をし、屋敷をうろついてみたり部屋にこもったり、庭にでてみたり。腹が減ったら食事をし、ただ一人だけ話し掛けてくる使用人と会話をする。その使用人は女であったり男であったり様々だったけれど、女と暫く話すと別の人間に変わった。女と話すのをやめた使用人は、二度と女の前に現れなかった。屋敷の何処でも見ることはなかった。時折、女と話して泣き出すものもいたし、酷く激昂するものもいた。女はそれをただ無感動に見つめていた。女を殴るものもあったし、女に縋るものもあった。女はその一つ一つに応えた。殴られれば殴り返したし、縋られればその言葉に対して女が思うことを口にした。女は、男にも女にも分け隔てなかった。嫌悪や不快感は自分を含めた全ての男女にあったので、既に麻痺していた。そんなものばかり感じていても疲れるだけだったし、生きるのには不要であったので。

 煩わしいとは感じなかった。何せ、女にとって食事と寝る以外にすることと言えば、その会話だけであったので、無駄にある時間を費やすに丁度良かった。

 だから、女はどんな話も真剣に聞いた。学はなかったが、多くと話す内、何がどういうことを意味するのか少しずつ理解した。話す者たちは皆、女に何かを期待する目で女を見た。女は何を期待されているのか分からなかった。分からなかったので、気付かないふりをした。それくらいのことは、女も身につけていた。

 ある時、あなたは神だ、とその時の話し相手――男だった――は言った。女は違うと答える。女は神がどういうものなのか知らなかったが、自分がそういうものでは無いだろうと思った。自分は『女』でしかないのだ。不快な『女』でしかないのだと女は思っていた。

 男は、この生活で不満は無いのか、と女に問うた。女は不満はないと応えた。理由を問われると、女は暫く黙った。そして、この生活に不満を持つ理由がないからだ、と女は答えた。

「食事もある、服もある、家もある、生きている。他に何か?」

 女が問い返すと男は返答に窮した。女にとって、それが全てだった。その日から、男は来なくなった。

 女はふと、皆この言葉で現れなくなるのだと悟った。言い方は違えど、同じようなこと聞くと皆答えずに現れなくなるのだ。何故だろうかと女は考えた。考えて、考えるのをやめた。

 それからまた同じ毎日だった。別の人物が来て、何日か話して、そしてまた来なくなる。使用人かと思っていたが、そうではないようだと女は気付いた。使用人がこんなにコロコロ変わるはずもないし、最近では使用人とは思えないような服装をした人物もやって来るようになっていたので。

 そういう毎日が、どれだけ続いたか分からなくなってきたころ。女は、ある朝目覚めて、体の変調に気付いた。自由に動かないのだ。酷く体が重い。腹も減らないので、このまま寝ていようかと女は思った。

 そして不意に。

 ――あぁ、これで終わり。

 と、唐突に思った。これが自分の生の終わりだと悟った。何故そう思ったのか、女には分からない。ただ、目の前に避け様のない眠りがあるのだと分かっただけだった。

 女は静かに目を閉じた。とても安らかな気持ちだったし、酷く疲れたような気分だった。

 女は一度深く息を吸い、そして吐いた。それから女は、ぴくりとも動かなかった。