10. あの日 あの時 あの場所で

 過去と未来は、実は同一。

 

 

 すれ違った瞬間に、彼女だと気付きました。解らないはずがありません。私の学生生活の中で、一番印象に残った存在なのですから。だから私は、力一杯振り向いて、腹の底から叫んだのです。

「サラ!」

 すれ違った彼女は、すぐに振り向いて、そして私の期待に反して、怪訝な顔をしました。

「だれ?」

 私はじっと彼女を見つめます。彼女もじっと見返してきます。

 そうして見つめ合ううちに、私は奇妙な違和感を感じました。

 顔が同じです。その髪の色も眼の色も。身長も体つきも、同じように感じます。なのに、何かが違うと、心がざわつくのです。

「私……サラと国務学校で一緒だったんだけど……憶えてる?」

 歩み寄って私が言うと、彼女は顔を顰めました。

「私、国務学校なんて行ってない」

「嘘! 写真あるから! ちょっと待って!」

 予想に反して彼女に告げられた言葉に、私は戸惑いました。そして、携帯端末に卒業式の日に撮った、彼女が唯一映る写真のデータがあることを思い出し、慌ててそれを取り出します。

 端末を操作し、メモリから呼び出した写真は――

 

「私、みたい」

 いきなり呼び止められて見せられた写真は、確かに私であるようだった。けれど、私は、私の記憶には、国務学校にいたという事実はない。

 目の前の彼女は、首を傾げる。解らないのが不思議だとでもいうように。

「サラ・モノよね?」

 確認するように問う彼女に、私は首を振った。

「私は、サラァル。サラァル・ツヴァイク。確かにみんなサラって呼ぶけど、サラ・モノなんて知らない」

「……ごめんなさい、人違いだったなんて」

 彼女は申し訳なさそうに顔を逸らし、それから私に向き直ってそう告げた。気恥ずかしいのか、そわそわと体を揺らす。それから私をしげしげと眺め、

「それでも、よく、似てる」

 と言った。私もその言葉には賛成だったので、一つ、頷く。

「不思議な感じ。私も【彼女】を知ってるような気がする」

 それはただ自分に似ているからではなく。

 サラ・モノという名も、彼女の面立ちも、私は良く知っているような気がする。

「……フルーツインゼリー」

 不意に自分の口から零れた言葉に、私は顔を顰めた。私は言おうとして言ったわけではない。本当に、零れた言葉だ。

「そう!」

 途端、彼女は叫んだ。

 

「私の知ってるサラも、フルーツインゼリーが好きだったの。やっぱりサラなんじゃないの?」

 彼女がいきなり、フルーツインゼリーだなんていうものだから、私は思わずそう叫びました。

「違う……ただ、彼女を見てたら、そう思っただけ」

 サラァルは戸惑いながらそう答えました。私は尚更わけが分からなくなり、一度確認するように尋ねます。

「サラ、じゃあないのね?」

 彼女は一つ、頷きます。

 私は肩を落としました。

「姉妹とか?」

「ファミリーネームが違うし、私は……」

 そこで、彼女は言葉を切りました。何かいえないことがあるんでしょうか。

 あぁ、そもそも初対面で家族のことを尋ねるのは、失礼だったかもしれません。というか私は名前さえ名乗っていないのです! なんて不躾なこと!

「ごめんなさい。立ち入ったことを訊いてしまって」

 私は慌ててそう告げます。彼女は構わない、と頷きました。

「でも不思議だ。何故そんなに、彼女に拘る?」

 それから、彼女がそう問うて来ましたから、私は答えます。

「二度と会えない、って言われちゃってるから」

 彼女は目を見開いて私を見ます。私はなんだか居心地が悪くなってしまいました。そもそも、引き止めているのは私なのですから。

「ごめんなさい。時間をとらせてしまって。それじゃあ……」

 私はそう言って、逃げるようにその場を去りました。

 実際、私は逃げていたのかもしれません。サラであるはずなのに、サラでない、彼女から。

 

 私が答えなかった所為か、彼女はうろたえる。私は答えるに答えられないだけなのだけれども。私の存在はそもそも、民間には秘されるべきなのだろう。私がどうやって生まれたかは、私と、私を作り出した人たち、そして、私を使う人たちが知っていれば良いのであって、一般の人々に知らせる事柄ではない。

「ごめんなさい。立ち入ったことを訊いてしまって」

「構わない。気になるのはわかる」

 彼女が問いを諦めてくれたことに安堵して、私は応じた。

「――でも、不思議だ。何故そんなに彼女に拘る?」

 純粋に私は興味を感じて、尋ねる。彼女は少し表情を曇らせてから、

「二度と会えない、って言われちゃってるから」

 と答えた。

 二度と、会えない。

 ――いきたく、ない。

 聞いたことのない声が、自分の中に生まれて、私は目を見開く。これは私の『記憶』だろうか? それとも『記録』?

 これは、私の中にある声なのか――私の声なのか。

 いや、違う。

 ではこれは――誰の声?

「ごめんなさい。時間をとらせてしまって。それじゃあ――」

 彼女は僅かに震える声でそう言い、元々彼女が向かっていた方に走り去ってしまった。

「あ……」

 私は、もう少し話がしたかった。けれども往来であるし、彼女の都合もあるのだろう。私は彼女を引き止めず、ただ彼女の背を見送る。すぐに人ごみに紛れ、彼女の背中は見えなくなった。

「まだここにいたのか、アル」

 見送るうちに、聞き覚えのある声が私を呼ぶ。私は振り返る。往来の中でひときわ目を引く瀬の高さである。

「えぇ」

 頷きを返せば、彼は不思議そうな顔をする。

「何かあったのか?」

 私を呼んだのは、私を作り、育てた人の一人だった。

「人違いです」

「人違い?」

「私が、知人によく似ていたそうで」

 そう応じると、彼は酷く顔を顰め、行こう、と歩き出す。私は彼の後を追い、幅の違うコンパスに追いつけるよう、少し早足で歩いた。

「何か問題が?」

 追いかけながらそう問えば、そうだね、と彼はうなる。それからしばらく黙り込み、そしてゆっくり、口を開いた。

 

 話すのは気が進まなかった。何故なら、それはもはや彼女の中ではなかったことだからだ。しかし、彼女は呼び止められたその理由を欲している。興味関心を自分に対して持つというのは、人として望むべき進歩だ。そう。進歩なのだ。そして、興味関心の発露は、新たな進歩を、進化を呼び込むに違いない。ならばその興味関心を充たしてやるのが、道先案内としては適当なのだろう。

「問題はない……アル、君は自分の記憶に疑いを持ったことがあるかい?」

「いいえ? 自分の経験は事実です。事実を疑うことなんて……」

「いや、経験ではなく、記憶だ。経験は記憶の一端に過ぎない」

「どういうことです?」

 彼女が顔を顰めた。感情表現が豊かになるのは、良い傾向だろう。

「例えば、Aと云う人がいる。君には、『Aは足が速い』という記憶がある」

「はい」

「それは、君が例えばAと競争でもして得た【経験としての記憶】なのか、それとも何かの、噂だとか、聞いた話だとか、そういうもので得た【知識としての記憶】なのか」

「知識としての記憶を疑え、ということですか」

 彼女がそう返すのへ、私は首肯して応じる。

「君には姉がいた」

 そうしてそう繋げれば、彼女は首を左右に振る。

「いません」

「いたんだ」

「そんな――」

 彼女が言葉を失い、往来で立ち尽くす。

 私は彼女の腕を引き、横道に逃れた。目立つわけには行かない。

「表層記憶の調整が時折君たち姉妹には行われる。君が姉を――サラ・モノを憶えていない様に、モノも君――サラ・ジを憶えてはいない」

「…………」

「キミが、サラァル・ツヴァイクの名を得て、あそこを出たように、君の姉も別の名を得てあそこを出た。君が彼女を【忘れた】のは、その時だよ」

「それが事実だとして、けれど、彼女はモノの名前を知っていました」

「モノが国務学校へ行ったのは、モノとしての最後の自由だからだ。それ以降の名前は、別にある」

「今のモノは、別の名前だということですか」

「そうだ」

 私は頷く。彼女は一つ息を吐いた。

「私が、ジで、そしてアルで、ツヴァイであるのは、私に姉がいたからですか」

「そうだ」

 彼女の問いとも呟きともつかない言葉に、私は諾と返す。

 向こうの通りは人通りが多いけれども、この路地は薄暗く、人通りは皆無といっていい。声を潜めた話をするには持って来いだった。ビルにはさまれて日の光はほぼ届かないと言って良い。足元には僅かだが苔が生えている。日当たりが悪い証拠だ。

 私はその苔を踏みにじる。

「不思議だったんです」

 彼女がポツリと呟いた。

 

 彼が苔を踏みつけている。苛立っているのか、何も考えずただ足がそうしているのか、私には解らない。けれども、この会話はおそらくきっと、彼の予定にはないものだろうから、苛立っているという判断の方が正しいだろう。

「不思議だったんです」

 彼の苛立ちを如何こうする気は私にはない。ここで会話を止めても続けても、彼の苛立ち具合などそう変わるものではないことを、私は知っている。ならば、訊きたいことも言いたいことも言ってしまった方が良い。きっとこの人に会うことはもうないだろうから。あそこに帰ることも。

「何が?」

 彼は不思議そうに私を見る。

「私の名前は、全て『2』でした。ジも、アルも、ツヴァイも。でもみんな、私が一番初めだという。『1』は、どこにあるんだろうって……モノは、『1』だったんですね」

 彼はじっと私を見、そして一つ、ゆっくりと深く頷いた。

「そうだ」

「でも、今の彼女は私を知らない? 私も、以前おそらく『彼女』といたはずなのに。だというのに、それを【知らない】ように」

 彼は目を伏せる。

「そうだ」

 彼は頷くと、私から視線を逸らし、路地の奥へ向かって歩き出した。私もその後を追う。

「彼女は君を【知らない】【憶えていない】」

「はい」

「君も彼女を【知らない】し、【憶えていない】」

「――はい」

 徐々に彼の歩みが速まり、私はそれを追うために半ば走るような形になった。

 すぐ、それほど長くもない路地を抜ける。

 薄暗がりから、光の中へ。

 彼が立ち止まり、私もその後ろで立ち止まる。

 彼の目前に、一人の女性が立っていた。

 見たことのない人だった。私の見たことある人と云うのは、私が生まれた、あの施設に関わる人のみだから、私の知る人など高が知れている。それに、私の記憶は幾分か操作されていることがわかったわけだから、実際に会ったことのある人にしても、当てにはならない。

「それが不満では、ないかい?」

 彼は振り返ることなく、私に問うた。私の記憶が、操作されていることに関してだろう。

「解りません。けれど、私がそうされるには、そうされるだけの理由があって、それはまた、【あそこ】では普通なのだと、思います」

「その感覚さえ、操作されているとは思わない?」

「そうであったとしても、今私がそう感じている、と云う事実においては、疑いのないものです」

 彼はまた息を吐いた。

「サラァル・ツヴァイク。それがこの子の名前です」

 そうして、目の前の彼女に、私の名を、告げた。

 

 私は、目の前の人物の顔立ちに、少し、目を見張った。とても、よく似ていた。

「アル。こちらは、前島椿女史。これから、君の司令官になる方だ」

 彼女はこちらをちらりと見て、軽く会釈する。その動きは、『彼女』とは似ても似つかないのだけれども、私は彼女から『彼女』の影を払うことが出来ない。

「司令官なんて大それたものではありません」

 私がどうにかそう答えると、彼は首を左右に振った。

「ではそちらでは貴女より上官になる方はいるのですか」

「いえ……ですけれど、私はただの反逆者です」

 男の問いに私が答えれば、彼女は目を見開く。

「……失礼ですが、貴女は――」

 そして、彼女は感づいたのだろう。問おうと口を開くのを、私が制した。

「そう。世界の『敵』です」

 問われる前に、答えを。

 彼女は息を呑んだ。

 私は薄く笑みを浮かべ、右手を差し出す。

「よろしく、サラァル。あなたが来てくれて嬉しい」

 彼女は、私の手を握り返す。酷く、弱弱しい力だった。表情は硬い。うろたえていると言った方がいいかもしれない。

「望んだわけではないのね?」

 私がそう問うと、彼女は逃れるように私との握手を解いた。視線が、泳いでいる。

「アル。それは失礼だ。前島女史――司令は、君に会うためにわざわざこんな内地まで来て下さっているんだから」

「私に?」

 彼の言葉に彼女は目を見開いて、こちらを見た。男は彼女の視線の隅で頷いた。彼に合わせたほうが良いのだろう。私も頷いてみせる。

「私たちは同士を歓迎する。迎えるのはこちらなのだから、それぐらいの礼は尽くさせてもらうわ」

 私が答えると、彼女は目を輝かせた。

「私が、必要なんですか」

「貴女が、来るというのなら」

 私の言葉に、彼女は力強く頷いた。

 

「行きます」

 私は強い口調で言った。

 私が。『二人目』の私が。私こそが必要とされているなら、私は喜んでそれを望む。自分が必要とされることほど、嬉しいことなどないはずだ。

 ――私は何時だって『二番』だった

 急にそんな言葉が思い浮かんで、記憶を手繰る。けれど、そんな記憶は私にはない。きっとこれも、調整された記憶なんだろう。『一番』はきっとモノなのだ。私よりも優れていて、私よりも期待されて、私よりも先にあの施設を出て行った、私の姉。私と違って、国務学校三年間の自由さえ手にしていた、彼女。

 きっと、モノは私にとってコンプレックスそのものだったに違いない。

 前島椿――司令と呼ぶのが正しいかもしれない――は嬉しそうに微笑んだ。

「十年。なんとしても生き残ってね」

 そして、そう言う。

「十年戦い抜くことが出来れば、貴女を『楽園』に連れて行ってあげる」

「楽園?」

 私が怪訝な顔をして問えば、彼女は一つ、しっかりと頷いた。

「そのために、私はこの戦争を起こしたのだから。旅立つための戦いを」

 彼女は薄く微笑んだ。

 私が振り返ると、彼も頷いている。

「安心しなさい。私も行くから」

 二度と会うことはないと思っていたのに。

「何故ですか?」

 問えば、彼も薄く笑った。

「君を渡すことと引き換えに、私が亡命するんだよ。彼女の元に」

 ――私は……

 私は思わず腰の後ろに隠し付けてあるホルスターから銃を引き抜いた。

 感情が迸るのを、初めて感じた気がした。

 彼が、目を見開いている。

 引き金を――

「止めなさい、サラァル」

 聞こえた声に、私は息を呑んだ。手が震えだす。白く細い手が伸びて私の手を包み、そっと銃を奪う。

「貴女がすることではないわ」

 そして、彼女が、引き金を――

 絞った。

 

 久々に感じた銃の反動は、私には新鮮だった。

 護身用と思しき、小出力の電子銃。それでも発射の際には僅かな反動があり、実弾を使っていた頃をなんとなく思い出す。

 男は電撃に痺れ、自由を失っている。

「行きましょう」

 私が言えば、彼女は呆然とこちらを見た。

「人を取引の道具にするような人を、私たちは求めない。……そうでしょう?」

 そう問いかけても、彼女はじっと私を見ているだけで、何も言わなかった。

「行くの? 行かないの? 貴女が選びなさい。もう一度。彼の指示でもなく、まして、取引道具としてでもなく。貴女が、選びなさい」

 言って、手を差し出す。

 この手を掴むのか。掴まないのか。

 それが彼女の、最初の選択だ。

 始め、彼が連絡を取ってきた時は、自分ともう一人を亡命させて欲しいということだった。もう一人は特殊な訓練を受けていて、戦争の役にも立つはずだからと。

 次に亡命の日取りを決めるとき、彼は言った。「彼女は逆らいません」と。貴女が上官なら、逆らうことはない。そのように調整する、と。

 その言葉で、私は彼を見限った。けれども、その『彼女』――つまりはこのサラァルに、私は会ってみたかった。会って、話してみたかったのは事実だ。そして、彼女自身に選んで欲しかった。

 戦力になるという言葉に、惹かれなかったと言えば嘘になる。

 彼女が今まで、そのために育てられてきたのなら、命に従うだけで、自分で選ぶなどと云うことはそうなかっただろう。

 ならば。

 だからこそ。

 私は彼女に選んで欲しい。たとえそれが、彼が与えた選択肢だとしても。

 私はただ、手を差し伸べて待っている。

 彼女が選ぶのを。彼女が決めるのを。

 肯定を――心からの願いをこめて待っている。

 拒絶を――心からの喜びを持って待っている。

 それがすべて、彼女自身、彼女そのものの選択であるのだから。

 

「行くの? 行かないの? 貴女が選びなさい。もう一度。彼の指示でもなく、まして、取引道具としてでもなく。貴女が、選びなさい」

 私が。

 私自身が、私のことを決める。

 彼女の白く細い手は、私に向けて開かれている。

 その手を掴むのも払うのも、全て私の『自由』であり、『責任』なのだろう。

 その手を取れば――私はきっと、彼女と共に行き、彼女と共に戦場に立つだろう。私が彼女の一兵卒、あるいは、もっと端的な言い方をすれば『味方』として。彼女の言う『世界の敵』になるのだ。

 その手を払えば――きっとここに倒れているこの男と、またあそこに帰るのだろう。この男には他に行き場がないはずだ。私を連れ帰り、また『調整』して、次の場所――おそらく政府側の戦場へ、私は発つことになるのだろう。そこで私は、一人の兵士、一つの兵士として戦争に関わるのだ。

 どちらにしても、戦争に関わることには変わりない。そのように私が用意されているのだから、当たり前といえば当たり前。

 私には戦争という環境しか与えられない。そのために生まれて、そのために育てられて。そして、それしか私には出来ない。対加重訓練はしたけれど、私は本の重みを知らない。基礎教育を受けたけれど、私は学校も教室も知らない。私を取り囲む研究者や妹たち(姉がいたことは先ほど知ったわけだけれど)はいたけれど、私には友人がいない。

 命令に従うことは出来るけれど、そしておそらく疑問も持たずに実行できるけれど――

 自分で自分を定められない。

 私は何がしたい?

 私には戦争という環境しか与えられない。

 なら、私は――私に出来るのは、その環境での自分の立ち位置を選ぶだけじゃないだろうか。

 彼女の差し伸べる手は、正にそれなのだ。

 その手を掴めば、私は世界の敵に。彼女の側に。旅立ち、楽園を目指す側に。

 その手を拒めば、私は世界の兵に。兵器に。彼女の敵に。旅立ちを、阻む側に。

 私は――

 

 

 

 

 

 

 私はゆっくり、しかししっかりと、彼女の手を握った。